ケンヂのきもち

まずは自分を知らなきゃね~

少年時代 3

 

(つづき)

 

 

オッカンは最初、学校の帰りに通る道順がケンヂ達とは違っていたので、家が近い事を知らなかった。入学後数ヶ月が経ち、家が近いことがわかり、一緒に帰りだして仲良くなった。

背が前から2番目と小さかったが、明るく活発でグイグイ人を引っ張っていくような性格だった。小学1年から6年まで同じクラスで、一番の仲良しになった。

 

オッカンの家は一軒屋でよく遊びに行った。可愛らしい妹がいたが遊びに行くとオッカンが追い出して二人でゲームをしたり本を読んだりして遊んだ。オッカンの妹が買っていた少女マンガの雑誌なんかも読んだりした。

オッカンのお母さんはセンスの良いお嬢様育ちな感じの人で、モダンで若かった。遊びに行くと、たまに手作りのおやつを出してくれた。甘いメレンゲムースのレモンソースケーキは絶品で、それまでおやつというものをほとんど口にした事がないケンヂを魅了した。

 

オッカンは当時珍しくサッカーボールを持っていて、よく公園でサッカーをして遊んだ。

ケンヂの家の近くの公園で二人でサッカーをしてたところ、後から公園に遊びに来た別の学校の小中学生15~6人に絡まれたことがあった。

ケンヂは大きな中学生数人に羽交い絞めにされ、殴られたりボールをぶつけられたり、投げ飛ばされたりして、馬乗りになられた。ケンヂはめいいっぱい抵抗したが、大きな中学生には力ではかなわなかった。

そのときオッカンが走り去るのが横目に見えた・・・え??

「お前の友だち見捨ててにげたで~」

馬乗りになり笑っている中学生に腹が立ち、手に思いっきり噛み付いた・・・

「いたたた・・・はなせ!!」

ケンヂは更に強く噛み続けた・・・

鉄のような味がしてきた・・・

周りにいた小中学生から蹴られたりしたが離さなかった。

噛み付かれた中学生は泣いていた・・・

その時、オッカンがケンヂの母を連れて走って戻ってきた。

「こら!」フライパンを振りかざし走ってくる母を横目に見ながら、サザエさんみたいだなぁ・・・となんとなく思った。

オッカンはケンヂを見捨ててはいなかった。

小中学生は一目散で逃げた。手からすこし血が出ていた中学生も噛み付いていたケンヂを振りほどき逃げていった・・・

この話は、翌日学校でクラスメートに知れ渡り(オッカンにより)、皆から英雄視されるとともに、「狂犬病」とか「ケン犬」とかいう渾名に変わった。

あまりいい気はしなかったが「スッポンよりましだろ~」と言われ、渾名を快く受け入れた。

 

ケンヂは小学生時代三度馬乗りになられた経験がある。

温和でお調子者だったし、決して喧嘩が好きなわけではない。

二度目は小学6年生の時だった。

当時図書委員と校舎整備委員をやっていたのだが、選挙で委員長副委員長を選ぶ時、立候補していないのに推薦でケンヂの名前が出た。校舎整備委員は他に推薦される人も無くすんなり副委員長になった。図書委員の選挙の時、副委員長に幼稚園時代から9年間同じクラスだった友だち、Nくんが立候補した。Nくんはクラスで一番小さく「チビ」と言う渾名だった。(悪気があっての渾名ではない)

当然立候補優先だろうと思っていたら、なぜか多数決でケンヂに決まった・・・Nくんは下を向いて悔しそうだった。

ケンヂはクラスの班長、総合学習の班長など、立候補しないのになぜかよく選ばれた。

図書委員選挙の数日後廊下でNくんがほかの子と歩いていたので、オッカンと

「おう!ちび~」と言って背中をトンと叩き追い抜かした・・・・次の瞬間、後頭部にNくんが殴りかかってきた。

いきなりだったので防御も出来ず、何度も殴られたまま馬乗りになられ、髪の毛をつかまれ床に何度もゴンゴン打ち付けられた。ケンヂはわけのわからぬまま殴られる状況を打破しようと、N君の髪を引っ張りながら、爪を立てて鷲づかみにした。ケンヂは握力が強く爪を立てていたところに血がにじんでいた。Nくんが泣いていても離さなかった・・・その時先生が来て引き離された。右手の指には血、左手の指には抜けた髪の毛がついていた・・・

Nくんは泣いていたが、ケンヂは喧嘩では泣かなかった・・・

先生はオッカンや周りにいた子から状況を聞き、怒らず二人を保健室に連れて行ってくれた。

 

その日の夜、家にNくんのお母さんがNくんをつれて怒鳴り込んで来た。

ケンヂは学校から帰るとその日は早い時間から疲れて寝ていたのだが、甲高い怒鳴り声で目が覚めた。

オッカンが「Nが先に手を出してきた」ということと、「頭をガンガン床に打ちつけられてたので、ケンヂが死ぬんじゃないかと思った」と言うことを、母に電話で話していてくれてたので、ケンヂは叱られることはなく

「家の子も顔があざだらけではれてるし、子供の喧嘩ですから・・・」と言って追い返しているのが玄関の方から聞こえてきた。

追い返しているのを聞きながら、ケンヂは、何でNくんがあんなに怒ったのか? を考えてみたが、「チビ」と言ったせいなのか?「図書委員副委員長」のせいなのか、やはりわからないでいた・・・が、一応反省して今後「Nくん」と呼ぶことにしようとのんきに考えていた・・・

  

 

夏休みにはオッカンと、近所の山のふもとにある神社『大判神社』と、その裏山に登ってよく遊んだ。神社境内の上から登り、山に入り道無き道を歩き回り、竹の子を掘ったり、木苺をみつけて食べたり、蝉やカブトムシやクワガタを捕ったり、木に登ったり、木々をツルで縛って屋根を作り、落ち葉を乗せて秘密基地を作ったりした。たまにグンボも呼んであそんだ。オッカンとは当時カブスカウトに一緒に通っていたので、アウトドアの知識はある程度持っていて、山は恰好の遊び場だった。

 

夏休みのある日、オッカンが

「グンボも誘って、夜明け前、朝5時に大判神社に集合してからカブトムシを捕りにいこう !」と言ってきた。

薄暗い山でカブトムシを捕る姿を想像して、どうしても行きたくなった。

一番遠いグンボが4時45分に家に来て、5時に大判神社に行くことにした。

親にその話をしたが、許してくれるはずも無くこっそり抜けだす事にした。

その日は、気づかれないように懐中電灯やビニール袋などをカバンに詰め準備し、早めに寝た。

朝3時には目が覚めた。様子を伺いながら抜け出す時間を待った・・・

4時半に気づかれぬようこっそり抜け出し、アパートの階段の下に隠れて、グンボを待った・・・

外は真っ暗でシンと静まり返って・・・人に見つかるかもしれないという緊張感でドキドキした。

時間が過ぎてもグンボは現れなかった・・

仕方が無いので、一人大判神社への道を人目につかぬよう急いだ・・・

暗い夜明け前に家を抜け出すのは初めてで、小学生のケンヂにとっては大冒険だった。

今と違い、当時はコンビニなんて無かったし、月明かりと街灯の明かりしかなかった。人目につくといけないので、街灯のある道は避けて月明かりで道を急いだ・・・

トムソーヤさながら、ドキドキしながらワクワクしながら大判神社に到着した。

  

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少年時代 2

(つづき)

 

貧乏だったが、長男の教育には父母も力を入れていた。兄は小学校に入った年からピアノを習い、3年生からは習字とそろばんを習い始めた。どれも能力を発揮し特にそろばんは6年で段を持っていた。ケンヂもそろばんだけ小学3年生のとき1年だけならいにいった。習い始めて1年後の最初の試験でそろばん2級暗算3級をとったが、先生が高齢でそろばん塾を閉めたので、1年だけしか出来なかった。

 

兄は順当に国立大付属中学に合格し、入学時に当時はやっていたデジタルの時計と新しい自転車を入学祝で買ってもらった。当時はとてもうらやましかった。ケンヂは不合格だったので買ってもらえず、中学入学時に人生初の自転車と時計を今まで貯めていた自分のお年玉で買った。兄は中学入学からお小遣いを月2千円もらっていたが、ケンヂは高校三年生になるまでお小遣いをもらったことが無い。中学入学から新聞の朝刊配達を行って、お小遣いを自分で稼いだ・・・その話はまだ後の話だが・・・

 

子供のころは、家だけでなく知り合いの家、親戚の家、学校・・・いつでも兄と比較され、その度に嫌なみじめな気分になっていた・・・兄がうらやましかったけど、嫌いだった。

 

 

 

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        少年期2   小学生時代

 

 

小学校が特殊な学校だったのでその説明から始めよう。

ケンヂの小学校は国立大の付属小学校で、国立大学教育学部付属小学校・・・と教育学部という名前が学校名に入り、大学の教育学部の実験校だった。当時県下ナンバーワンの進学校で6年生の時毎週日曜日に行われる県内公開模擬試験「日曜テスト」では1位~30位までほぼ独占状態という学校だった。

 

当時のお受験は知能指数IQテストと積み木や簡単な算数のテスト、そして面接だったと記憶している。IQは後から聞いた話だが158で1番だったらしい。IQが10以上ケンヂより低かった兄が学年テストで常に1番だったため学校の先生からは妙な期待をもたれていた。教育開発のモルモットだったのである。3年生の時兄の担任の先生に呼び出されてそんな話をされた。その兄の担任はあきれた感じで「お兄さんはべんきょうができるのにねぇ・・」といった。今でもその時の絶望感は忘れられない・・

 

この学校は普通の小学校とは少々違う教育方法を色々試験的に行っていた。少数精鋭で、各学年2クラスしかなく、「6年1組」とかではなく「1部6年、2部6年」というクラスわけがしてあった。「1部」と「2部」では教育方法がおそらく違ったのだろうけど、ケンヂは小学1年生から6年生まで「1部」だったので、どのように違うのかはわからない。担任の先生も1年から4年まで同じ先生、5年6年に違う先生に代わり小学時代通して2人の担任の先生で一貫した教育を行った。数ヶ月ごとに研究授業というのがあり、他校の先生方が30~40人授業を見に来たりしていた。

 

テストも他の小学校とは違い、国語は教科書で教わった所が試験に出るのではなく、まったく読んだ事がない文章を読み、そこから出題される。算数は6年生の時に中学2年生の数学で習うあたりまで学習した。ケンヂは勉強嫌いで体育や美術(造形という学科だった)音楽以外は4段階評価の下から2番目がほとんどだった。1学年76人中大体45~55番位の成績だった。(小学校では落ちこぼれに近い成績だったが、公立中学に入学すると勉強しなくても学年3位に入ることが出来た)

 

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5年生になると毎週金曜日に「総合学習」という授業が2時限行われ5年~6年生2学年で班を作り・・・という風に、2学年共同作業で行われた。連凧を作ったり、縄跳びを練習して大会を行ったり、百人一首を覚えて百人一首大会を行ったり、校庭に大規模なアスレチックをつくったり・・・学期ごとにイベントがあった。

毎週土曜日には2時限「自由研究」という授業があり、各自、期のはじめに自分で課題を決めそれを調べたりして期末に発表する・・・という自己課題学習で自由度が高く楽しいものだった。小学6年生の時、ケンヂが「まんが研究」をしたいと先生に行ったところOKがでたので、他の男子3人、女子2人も便乗してきて、まんがの描き方を勉強してまんがを書いて提出した。当時ケンヂはまんがが好きでまんが家志望だった。友達の家に泊まり「まんが合宿」を行ったり楽しいものだった。担任の先生は応援してくださり、それを製本して文化祭で生徒が読めるように展示してくれたりした。こんな風変わりな学校だった。もちろんケンヂはこのときまんがの才能がない事に気がついたわけだが・・・

 

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教育実習も年2回行われ、各クラス10人近いの大学教育学部の大学生が2週間にわたりやってきた。大学が小学校の近くにあったので、実習生は皆学校の近所に住んでいるので、よく実習生の家に数人でいったりして遊んでもらった。みんな四畳半一間のアパートに住んでいて、質素な生活をしていたが、安い鶏肉を買ってきてホットプレートで焼いて食べたり、当時はやっていたサザンオールスターズやツイストのレコードを聞かせてもらったり、手塚治虫の「火の鳥」の漫画をいただいたり、近所の公園で「ケイドロ」をして遊んだり・・・当時の小学生から見れば、とてつもなく自由で大人で楽しそうな生活に見えた。

こんな変わった学校だったが、楽しかった。

 

 

 

ケンヂの家は小学校から徒歩で1キロほどのところにあった。前にも書いたがケンヂの家の近く住んでいた男子のクラスメートは二人しかいなかったので、その二人『グンボ』と『オッカン』は当然遊び、仲良くなった。

 

最初に仲良くなったのはグンボだった。学校の帰り道が一緒だったので、一緒に帰りはじめた。体が大きかったが、おとなしく気が弱く無口で運動が苦手だった。母親が教育熱心でクラス一の秀才だったが、テストで100点がとれなときは泣いていて可哀そうだった。

自転車も母親が「危ないから」と「友だちの自転車にも乗らせないでくれ」と言って来た。グンボには2つ年上の姉がいたが、姉は活発で自転車に乗って遊びに行ったりしていた。

ケンヂもグンボも空想好きで本を読むのが大好きだった。よく物話を作って話しあったりなぞなどを出し合ったりして遊んだ。

グンボの家は小さな商店街の金物屋だった。グンボのおじいちゃんの三畳の部屋でよく遊んだ。おじいちゃんの部屋の前には小さな庭と池があり、雨の日なんか忍び込んでよく庭を眺めながら楽しい事を話したり将棋をしたりした。将棋では兄に鍛えたれていたので、グンボが秀才でも滅多に負けなかった。グンボとおじいちゃんの部屋には本がたくさんあり、大きな虫眼鏡や古銭のアルバムがあった。グンボのおじいちゃんの部屋で遊ぶのが大好きだった。

お母さんがやってくると、グンボは緊張して話をしなくなる。お母さんには会うたびテストの点とか、成績とか、兄の勉強方法とか家のことを聞かれた。 遊ぶ約束をしていても勉強があるからと遊ばせてもらえないこともよくあった。ケンヂもグンボのお母さんは苦手だった。

グンボは操り糸の見える人形だった。グンボとは小学1年から4年まで同じクラスだったので本当に仲が良かった。と思っていた。

 

 

 

 

 

 

ケンヂの物語     序~少年時代 1

 

 

 

 

 

                 序

 

 

 

最後の時期が近づいてるのがはっきりとわかる”瞬間”ってあるよね?

 

たとえば、学校の卒業時期・・・いままで同じ場所で勉強したり遊んだりしていた仲間と別れ別れになる前の時期

 

別れ別れになることは当然わかっている事実だけど

それはまだ現実味の無い別世界であり

避けて通りたいキモチが高まれば高まるほど、頭の中は自動的に現実逃避したがり

永遠に”今”が今後も続いていくような錯覚をおこしたまま、生活が続いて行く。

妙に色あせた時期で時間もゆっくりと流れて行く・・・

 

”その瞬間”はある日突然やってくる。

 

”永遠の今”の壁は突然微塵に打ち壊され

止まっていた時計がまた正確に時を刻み始める・・・

 

「ああ、もう終わりなんだなぁ・・・」

 

生活はその日から一転し

”今”の終焉へと向かっていく・・・

 

”その瞬間”は人生の中のひとつのターニングポイントであり

”その瞬間”が訪れると、短期間で生活が劇的に変わっていく・・・

なにか世の中のベクトルのようなものに皆方向と力を決められて流されていく感じ・・・

 

 終わりは始まり・・・・

 

次にガラガラポンで始まった世界はやがて時が経ちまた終わりを迎える・・・ 

 人生の中でその瞬間は何度も訪れる。

 

 

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           少年期1

 

 

 

ケンヂは昭和42年の夏に広島で生まれた。

予定日より2週間位早く生まれたので、未熟児で最初のひと月は保育器ですごした。其の病院の部屋の壁に「ケンコウユウリョウジ」という垂れ幕がかかっていたらしくケン*******ジ(ケンヂ)という名前になったらしい。安易だけどおかげで健康に育った。

 

ケンヂには三歳年上の兄がいる。

 仲はあまり良くない。

 

ケンヂの両親はそろってお隣山口県の生まれで、戦時中は広島にはいなかったので被爆していない。

父は6男4女の5男坊、母は1男2女の長女。

昭和36年に結婚したあと昭和38年に会社を経営している叔父を頼り広島へ・・・

叔父の家の2階の2部屋を借りて生活した。

幼子でも解るほど母はよく叔母にいじめられていた。

 

 

父は仕事のできる人だったので数年で会社に大きな利益を与え専務になったが、叔父の息子が成長して跡取りとして会社に入ると叔父との関係がうまくいかなくなり退社した。

ケンヂが小学校に上がる年、15坪ほどの倉庫を借りて、ブロックとコンクリートを使用して自分でで釜を作り、一人で食品加工の個人会社を始めた。

 

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当時は生活が苦しく、親子四人で [6畳、4畳半、1K] の家賃2万円の小さなアパートで質素な生活を開始した。それでも母はいぢめにあわないのでにこにこしていた。

ケンヂはそれが一番嬉しかった。

 

父は仕事が終わって帰ってくると風呂に入り食事の後よくマージャンやパチンコをしに出かけていった。博才があったみたいで、あたらしい仕事がまだお金にならない時期は、ギャンブルの儲けで暮らしていたらしい。休みの日はいつもゴロゴロ寝ていて遊んでくれなかった。家族旅行も近場に日帰りで2度しか行った事がない。

 

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兄は勉強が出来ていつも学年でトップだったので父のお気に入りだった。兄弟でうるさくしていたり喧嘩したりしてたら、「お前が悪い」といつもケンヂを殴った。兄はほとんど殴られた事がない。ケンヂは父が怖く近寄らないようにしていた。

 

母は結婚前、地元の洋裁店で働いていたのでケンヂの服はほとんど母の手作り。正確に言えば、貧乏なのでケンヂの服は母の手作りだけど兄のお下がりでもあり、長ズボンの膝の部分は穴が開いたものを補修したあとがあった。友だちにからかわれたりもしたこともあったけど、そのことを母に話すと悲しい顔をしたので2度と言わなかった。不憫に思い無理してズボンは丈夫なジーパンを買ってくれるようになった。貧乏な家庭はそういう時代でもあった。

 

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物心ついたころから、子供ながらに家は貧乏・・・とわかっていたので、物をねだったりという事はしたことが無い。近所の子が、超合金のロボットのおもちゃなんかをもって公園の砂場なんかで遊んでいたりしたら羨ましかったけど、グリコのおまけや数台のミニカー、トランプ、将棋位しかもっていなかった。だから遊びといえば近所や山で虫を採ったり、ガラクタや木を集めて秘密基地を作ったり、家のそばの人のいないトタン屋根の木材置き場で木の板や破片で遊ぶことが多かった。

 

兄もケンヂも学費が安いという事でお受験をして地元の国立小学校に進学した。

国立の小学校は県全域から生徒が集まっているので、1キロ以内の近所には、同窓生の男の子は2人しかいなくその友だちと山に行って遊ぶか、家で本や漫画を読む(同じ本を何度も何度も)ことが多かった。兄には1キロ以内に住んでいる同窓生はいなかったようだ。

 

自転車も買う余裕が無かったので、友達の自転車のあとを走っておいかけた。兄は小学4年生の時に、知り合いの子のお下がりの自転車をもらったけど、一度も使わせてくれなかった。基本兄は運動音痴で外で遊ばずに家で百科事典や図書館で借りてきた本ばかり読んでいて、ほとんど自転車に乗らなかったにもかかわらず・・・ドケチなのだ。たまにトランプや将棋をする程度しか一緒に遊んだ事がない。当時は勉強が出来ないケンヂのことを「バカケン」と呼んでいた。

 

こづかいも貰っていなかったので、物を買う時はお年玉だけが頼りだった。お年玉の大半はプラモデルや漫画、本など後に残るものに使った。買い食いとかは滅多にしなかったので、友達が駄菓子屋に行っても店の外で見てるだけだった。

 

 

カテゴリー:ケンヂの物語(はじめに)

 

 

これはケンヂの物語です 

 

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50歳目前の歳になり

どうやって今の自分が作られてきたのか   

 

何を大切に思い考えてたのか

どんな経験をしてきたのか

何が本当に大切な事なのか

もう一度過去を振り返ってみようと思います。

 

「過去を振り返るものは人生の敗北者」といいますが

過去の積み重ねの上に現在は作られてきたわけで

きっと見えなくなってしまったものや

大事な事を振り返り

鮮明にして

これからに生かしていくことは

大切な事だと思います。

 

自分さがしの旅になると良いと考えてます。

 

書ける日に書き足していきます。