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ケンヂのきもち

まずは自分を知らなきゃね~

少年時代 5

(つづき)

 

 

ケンヂが小学3年生になるまで専業主婦でいつも家にいた母も

父の始めた会社で事務経理をするようになった。小学4年生の時からケンヂはカギッ子になっていた。

兄は中学生になっていて、部活で遅くなる事が多く、ケンヂが家に一人でいる時間は多かった。

そんな時ケンヂは本やまんがを読んだり、白紙の自由帳に落書きやまんがを書いたり、空想の話を書いたりする事が多かった。

 ケンヂは他の生徒のようには勉強をしなかったし、国語の成績も小学1年から6年まで通して『ウ』(下から2番目)だったが、本を読む事は大好きだった。

学校の図書室の貸し出し可能な本の『貸出票』の半分にはケンヂの名前が書いてあった。

夏休みには14冊まで本を借りる事ができたが、読み終わるとまた学校に何度も借りに行った。夏休みでも週何日か図書の先生がいて貸し出し可能だった。夏休みは学校のプールで水泳教室があったので、プールのあとよく借りに行った。

 

図書の先生は優しい若い女の先生で、ケンヂに色々な本を紹介してくれた。ケンヂの学校の先生のほとんどは男の先生で、女の先生は数人しかいなかった。この図書の女の先生と保険の女の先生のお気に入りの生徒だった。

6年生の時、皆受験勉強をするため授業が終わると、足早に家に帰るようになった。

ケンヂは家に帰っても一人ぼっちなので、下校ギリギリまで学校の裏庭の大きなプラタナスやポプラの木がある人目につかない場所で、落ち葉の上に寝転がり本を読むことが多くなった。

土曜日なんかも誰もいない裏庭で日が暮れるまで一人本を読んだ。そのまま寝てしまい夜7時ごろ目が覚め、あわてて帰ったこともある。

 

当時、共働きの家は少なく、学校で体調が悪くなったりしたら家に帰っても誰もいないので、下校時間が過ぎても、母が迎えに来るまで保健室で休ませてもらったりした。

たまに放課後保健室の前を歩いていたら、保健の先生に呼び止められ、「内緒よ」と、奥の先生の部屋でこっそり紅茶とお菓子を頂いた。

 

文化祭の時、各自どこかの班に入り全校生徒の前で班ごとに発表するというのがあった。ケンヂは保険班になった。保健班では(男子4人女子3人の班で)出し物劇をすることになった。主役の男の子の役だったのだが、前日に女の子の役に保健の先生が変えてしまった。ケンヂは当然激しく反対したが、「やってみんさいよ」と先生を含む班員に押し切られた・・・

小学時代のケンヂは線が細く、女の子のような顔立ちだった。取り巻きの下級生の女の子には「かわいい顔」と呼ばれていた。

当日、先生の用意したウィッグと班の女子の可愛らしいドレスのような服をわたされ、化粧までされて女の子の台詞を練習させられた・・・直前まで・・・

ケンヂはアガリ症で赤面症で・・・人前に出る事自体苦手なのだが・・・女の子の恰好で女の子の台詞で、歌までとは・・・

保健班のメンバーには「ぜったいワシだって事言うなよ!」と念をおした。

本番・・・緊張を通り越していたが、先生を呪い、班員を呪い、爆笑覚悟で舞台に立った。

照明が厚く眩しく・・・クラクラしてきた・・・

勇気を出し、女の子になりきり演じた・・・

 

割れんばかりのすごい拍手だった・・・

ケンヂは気を失いそうだった。

当時のケンヂはボーイソプラノのような声だったので本番・・・・誰にも男だと思っていなかったようだ。

 

出し物が終わると、急いで保健の先生と保健室に駆け込みウィッグをとり、服を着替えた。

はずかしさと緊張が一気に取れて、涙がぽろぽろ出てきた。

化粧を落としながら先生に涙を見られないようにした。

先生は頭をなでてくれて、「よくやったね」と言い優しく微笑んだ。

涙がぽろぽろまた零れ落ちた・・・

泣きながら先生の出してくれた紅茶とクッキーを食べた・・・

どうして先生がこんな事をさせたのか理解できなかった。

 

でもケンヂは心の中で先生を許した・・・

 

後であの女子は誰だったんだ?と、うわさになっていた。

ケンヂは知らないフリを通したが、保健班の女の子達が意味深げに「さあ誰かね~」とケンヂの方を見て目配せするものだから、すぐにばれてしまった・・・

ケンヂと知れた後は、男子にはからかわれ、女子からは大賞賛を受けた。取り巻きの下級生女子にもしばらく、格好の追っかけの材料にされた。

 

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5・6年の時の担任はK先生と言う国語の先生だった。

K先生はケンヂの父と同い年で、厳格だが優しい先生だった。

先生は8歳の時、広島原爆で被爆され、お姉さんをなくされた。爆風で家がつぶれて、先生は家の柱と柱の間で助かり、同じ部屋にいたお姉さんは亡くなられた。

広島の学校では平和教育が盛んに行われる。先生の話や平和教育で見る映像や被爆者の体験談、「はだしのゲン」など図書室で読んだ原爆漫画や本は、またいつか話すが、ケンヂに心的外傷を与えた・・

 

発想法で知られる、川喜多次郎という文化人類学者が考え出した、データをカード化して、頭脳地図のようなダイヤグラムを用いまとめるために考案した手法、『KJ法』を当時から授業で実践したりしていた。他校からこの授業を見るために何度も大勢の先生が授業参観に訪れた。また、音読暗誦を盛んに行い、小学生ながら、夏目漱石の『草枕』の冒頭文や宮沢賢治の『永訣の朝』などを覚えさせたり、『百人一首』を全部覚えさせたりした。

朝礼では、男女各一人3分間スピーチがあったり、壁新聞を毎週書かせたり、毎朝日記を提出させ、帰る前までに必ず全員の日記にコメントを残し返却したり、自分で考えさせ、書かせることに力を入れている熱心な先生だった。

 

先生の好きな作家、井上靖の『天平の甍』が映画上映された時などは、「きっと今後の人生でみんなの力になる」と、クラス全員を自費で映画館に連れて行ったりした。長い長い話で、小学生には半分くらいしか理解できなかったが、強烈な映像が頭に残り、大人になったあとだが、思い返し、ケンヂはこの話の原作を読んだり、映画も見返したりした。

 

『自由研究』の授業で『まんが研究』を許可、応援してくれたのもK先生だった。

受験生なのに家でまんがを描いていると、いつも親に怒られた。

先生は「勉強だけが小学生に必要で大切な事ではない。色々な才能の伸ばし方は無限にあり、勉強はやる気になれば、今後、いつでもどこででもやる事ができる」と親を説得してくれたりした。ケンヂには才能が無かったわけだが、当時、才能を信じてくれた感謝すべき恩師だ。

 

 

ついでに『まんが研究班』のTくんの話をしよう。

この班に最後に入ってきた Tくんと言う子がいた。

Tくんは勉強が苦手で、成績も下から数えた方が早かった。

Tくんとはそれまで殆どはなした事が無く、まんがを描いたりするとは思わなかった、班に入ったのを機に仲良くなった。

Tくんはアイデアや画力に秀で、完成させたまんがは小学生のものとは思えない出来だった。ケンヂ達他のメンバーの遥か上を行っていた。

Tくんのまんがをみてケンヂは自分の才能の無さを思い知らされ、挫折し羨んだ。

 

まんがの発表の場である文化祭の終わったすぐ後、Tくんのお父さんが交通事故で亡くなられ、4人兄弟の長男のTくんの生活はがらりと変わった。

お葬式の日、Tくんはまだ小さい弟達の泣き叫ぶ中真っ赤な目で涙をこらえ、強い意志を前面に出していた・・・

ケンヂはそれまで身内や知り合いの『死』を経験した事が無く

絶望の中歯を食いしばるTの本当の辛さが解ってはいなかった。

Tくんは、それ以降、早朝からアルバイトをして、小学生なのに立派に『お父さん』していた。

学校では疲れて寝ている事が多かったし、休みがちになったが、愚痴一つ言わず立派だった。

 

皆より早くターニングポイントが来たのだ。

 

ケンヂ達は気の利いた言葉もろくにかけれ無かったが、一生懸命応援していた・・・