ケンヂのきもち

まずは自分を知らなきゃね~

ケンヂの物語  少年時代  前編 (加筆修正稿)

わかりにくい駄文・・・加筆修正しました。 

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 はじめに

 

 

これはケンヂの物語・・・ 

 

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50歳目前の歳になり

どうやって今の自分が作られてきたのか   

 

何を大切に思い考えてたのか

どんな経験をしてきたのか

何が本当に大切な事なのか

もう一度過去を振り返ってみようと思います。

 

「過去を振り返るものは人生の敗北者」といいますが

過去の積み重ねの上に現在は作られてきたわけで

きっと見えなくなってしまったものや

大事な事を振り返り

鮮明にして

これからに生かしていくことは

大切な事だと思います。

 

自分さがしの旅になると良いと考えてます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後の時期が近づいてるのがはっきりとわかる”瞬間”ってあるよね?

 

たとえば、学校の卒業時期・・・いままで同じ場所で勉強したり遊んだりしていた仲間と別れ別れになる前の時期

 

別れ別れになることは当然わかっている事実だけど

それはまだ現実味の無い別世界であり

避けて通りたいキモチが高まれば高まるほど、頭の中は自動的に現実逃避したがり

永遠に”今”が今後も続いていくような錯覚をおこしたまま、生活が続いて行く。

妙に色あせた時期で時間もゆっくりと流れて行く・・・

 

”その瞬間”はある日突然やってくる。

 

”永遠の今”の壁は突然微塵に打ち壊され

止まっていた時計がまた正確に時を刻み始める・・・

 

「ああ、もう終わりなんだなぁ・・・」

 

生活はその日から一転し

”今”の終焉へと向かっていく・・・

 

”その瞬間”は人生の中のひとつのターニングポイントであり

”その瞬間”が訪れると、短期間で生活が劇的に変わっていく・・・

なにか世の中のベクトルのようなものに皆方向と力を決められて流されていく感じ・・・

 

 終わりは始まり・・・・

 

次にガラガラポンで始まった世界はやがて時が経ちまた終わりを迎える・・・ 

 人生の中でその瞬間は何度も訪れる。

 

 

 

 

 

少年時代

 

 

 

 

 

 ケンヂは昭和42年の夏に広島で生まれた。

予定日より2週間位早く生まれたので、未熟児で最初のひと月は保育器ですごした。其の病院の部屋の壁に「ケンコウユウリョウジ」という垂れ幕がかかっていたらしくケン*******ジ(ケンヂ)という名前になったらしい。

安易だけどおかげで健康に育った。

 

ケンヂには三歳年上の兄がいる。

 仲はあまり良くない。

 

ケンヂの両親はそろって、お隣山口県の生まれで

戦時中は広島にはいなかったので被爆していない。

父は6男4女の5男坊、母は1男2女の長女。

昭和36年に結婚したあと昭和38年に会社を経営している叔父を頼り広島へ・・・

叔父の家の2階の2部屋を借りて生活した。

幼子でも解るほどに母はよく叔母にいじめられていた・・・

 

 

父は仕事のできる人だったので、数年で会社に大きな利益を与え専務にまでなった。

叔父の息子が成長して跡取りとして会社に入ると、叔父との関係がうまくいかなくなり退社した。

ケンヂが小学校に上がる年、15坪ほどの倉庫を借りて、ブロックとコンクリートを使用して自分で釜を作り、一人で食品加工の個人会社を始めた。

 

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当時は生活が苦しく、親子四人で [6畳、4畳半、1K] の家賃2万円の小さなアパートで、質素な生活を開始した。

親子4人で住むにはそのアパートは狭すぎたが、それでも母はいぢめにあわないのでニコニコしていた。

ケンヂはそれが一番嬉しかった。

 

父は仕事が終わって帰ってくると、風呂に入り食事をすませた後、よくマージャンやパチンコをしに出かけていった。

博才があったみたいで、あたらしい仕事がまだお金にならない時期は、ギャンブルの儲けで暮らしていたらしい。

休みの日は滅多に家にいなかったが、いればいつもゴロゴロ寝ていて、遊んでくれなかった。

家族旅行など滅多に無く、日帰りで近場を2度ドライブした位しかない。

 

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兄は勉強が出来ていつも学年でトップだったので父のお気に入りだった。

兄弟でうるさく騒いだり喧嘩したりしてたら、

「お前が悪い」といつもケンヂを殴った。

兄はほとんど父に殴られた事がない。

ケンヂは父が怖くて近寄らないようにしていた。

 

母は結婚前洋裁店で働いていたので、ケンヂの服はほとんど母の手作りだった。

正確に言えばケンヂの服は母の手作りだけど、兄のお下がりでもあった。

腕白盛りだったので、長ズボンの膝の部分などはすぐ穴が開き、何箇所も補修したあとがあった。

友だちにからかわれたりもしたこともあったけど、そのことを母に話すと悲しい顔をしたので、2度と言わない様にした。

母も不憫に思い無理してもズボンは丈夫なジーパンを買ってくれるようになった。

貧乏な家は当時そういう時代だった。

 

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物心ついたころから、子供ながらに『家は貧乏』とわかっていたので、物をねだったりという事はしたことが無い。

近所の子が、超合金のロボットのおもちゃなんかをもって公園の砂場なんかで遊んでいたりしたら羨ましかった。

おもちゃと言えば、お菓子のグリコに付いて来る『おまけ』や、数台のミニカー、トランプ、将棋位しかもっていなかった。

遊びといえば近所や山で虫を採ったり、ガラクタや木を集めて秘密基地を作ったり、家のそばの人のいないトタン屋根の木材置き場で、木の板や破片で遊ぶことが多かった。

  

 

兄もケンヂも学費が安いという事で、お受験をして地元の国立小学校に進学した。

国立の小学校は県全域から生徒が集まっているので、1キロ以内の近所には、クラスメートの男の子は2人しかいなく、その友だちと公園や山に行って遊ぶことが多かった。

友だちと遊ばない時は家で本や漫画を読む(同じ本を何度も何度も)ことが多かった。

兄には1キロ以内に住んでいるクラスメートはいなかったようだ。

 

 

自転車を買う余裕が無かったので、自転車を持っている友達と遊ぶ時は自転車のあとを走っておいかけた。

兄は小学4年生の時に知り合いの子のお下がりの自転車を貰った。

当時はやりの『変速機』と『フラッシャー(方向指示器)』が付いていてケンヂは羨ましかった。

『おさがり』と言っていたが、ケンヂが見ても新品だっということはわかった。お下がりではなく買ってもらっていたのだ。

兄は運動音痴で滅多に外で遊ばない。家で百科事典や図書館で借りてきた本ばかり読んでいて、ほとんど自転車に乗らなかった。にもかかわらず、一度も使わせてくれなかった・・・

兄の自転車は兄が6年生の時盗まれた。

兄は小学校入学時、本棚や電動鉛筆削り機、照明のついた学習机を買ってもらった。

もちろん兄は自動鉛筆削りも使わせてくれなかった。

ケンヂは家が狭いのと貧乏を理由に机を買ってもらえなかった。

小学3年生の時、何もついていないボロボロの小さな平机を頂いた。

 

家は狭かったが、当時兄はピアノを習っていて、狭い部屋には兄のオルガンもあった。

この家では長男と次男ははっきり区別されていた・・・

 

後で理解したのだが、父は10人兄弟の7番目。

戦中生まれなので当然貧乏な上、大黒柱の祖父のもと、長男の権力は絶大で、こういった力関係を当たり前の事として育ってきていたわけだ。

幼いケンヂにそんなことがわかるわけも無く、自分がどうしてこんなに差別されるのか・・・いつも不満に思っていた。

よく冗談で「お前は橋の下で拾ってきた」と言われた。

よくある冗談だが、当時は本当にそうなのかも知れないと考えた時期もある。

 

兄とはたまにトランプや将棋をする程度しか一緒に遊んだ事がない。

当時勉強が出来ないケンヂのことを「バカケン」と呼んでいた。

 

こづかいも貰っていなかったので、物を買う時はお年玉だけが頼りだった。

家にケンヂのものはほとんど無かったので、お年玉の大半はプラモデルや漫画、本など後に残るものに使った。

買い食いとかは滅多にしなかったので、友達が駄菓子屋に行っても店の外で見てるだけだった。

 

 貧乏だったが、長男の教育には父母も力を入れていた。

兄は小学校に入った年からピアノを習い、3年生からは習字とそろばんを習い始めた。

どれも能力を発揮し特にそろばんは6年で段を持っていた。

ケンヂもそろばんだけ小学3年生のとき1年間通った。

習い始めて1年後の最初の試験でそろばん2級暗算3級をとったが、その直後先生が高齢でそろばん塾を閉めたので、1年だけしか出来なかった。

 

兄は順当に国立大付属中学に合格し、入学時に当時はやっていたデジタルの時計と新しい自転車を入学祝で買ってもらった。

当時はとてもうらやましかった。ケンヂは中学受験に失敗したのを理由に買ってもらえず、中学入学時に人生初の自転車と時計を今まで貯めていた自分のお年玉で買った。

兄は中学入学からお小遣いを月2千円もらっていたが、ケンヂは高校三年生になるまでお小遣いをもらったことが無い。

中学入学から新聞の朝刊配達を行って、お小遣いを自分で稼いだ・・・その話はまだ後の話だが・・・

 

子供のころは、家だけでなく知り合いの家、親戚の家、学校・・・いつでも兄と比較され、その度に嫌なみじめな気分になっていた・・・

ケンヂは兄のことが好きではなかった。

 

 

 

 

 

少年時代  前編

 

 

 

 

 

小学校が特殊な学校だったのでその説明から始めよう。

ケンヂの小学校は国立大の付属小学校で、国立大学『教育学部』付属小学校・・・と『教育学部』という名前が学校名に入り、大学の教育学部の実験校だった。

県下ナンバーワンの進学校で、6年生の時毎週日曜日に行われる県内公開模擬試験「日曜テスト」では1位~30位までほぼ独占状態という学校だった。

 

当時のお受験は知能指数IQテストと積み木や簡単な算数のテスト、そして面接だったと記憶している。

IQは後から聞いた話だが158で1番だったらしい。IQが10以上ケンヂより低かった兄が学年テストで常に1番だったため学校の先生からは妙な期待をもたれていた。教育開発のモルモットだったのである。

3年生の時兄の担任の先生に呼び出されてそんな話をされた。その兄の担任はあきれた感じで「お兄さんはべんきょうができるのにねぇ・・」といった。今でもその時の絶望感は忘れられない・・

 

この学校は普通の小学校とは少々違う教育方法を色々試験的に行っていた。

少数精鋭で、各学年2クラスしかなく、「6年1組」とかではなく「1部6年、2部6年」というクラスわけがしてあった。「1部」と「2部」では教育方法がおそらく違ったのだろうけど、ケンヂは小学1年生から6年生まで「1部」だったので、どのように違うのかはわからない。

担任の先生も1年から4年まで同じ先生、5年6年に違う先生に代わり小学時代通して2人の担任の先生で一貫した教育を行った。

数ヶ月ごとに研究授業というのがあり、他校の先生方が30~40人授業を見に来たりしていた。

 

テストも他の小学校とは違っていた。例えば国語は、教科書で教わった所が試験に出るのではなく、まったく読んだ事がない文章を読み、そこから出題される。

算数は6年生の時に中学2年生の数学で習うあたりまで学習した。

ケンヂは勉強嫌いで体育や美術(造形という学科だった)音楽以外は4段階評価の下から2番目がほとんどだった。

1学年76人中大体45~55番位の成績だった。(小学校では落ちこぼれに近い成績だったが、公立中学に入学すると勉強しなくても学年3位に入ることが出来た)

 

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5年生になると毎週金曜日に「総合学習」という授業が2時限行われ5年~6年生2学年で班を作り・・・という風に、2学年共同作業で行われた。連凧を作ったり、縄跳びを練習して大会を行ったり、百人一首を覚えて百人一首大会を行ったり、校庭に大規模なアスレチックをつくったり・・・学期ごとにイベントがあった。

 

毎週土曜日には2時限「自由研究」という授業があり、各自、期のはじめに自分で課題を決めそれを調べたりして期末に発表する・・・という自己課題学習で自由度が高く楽しいものだった。

小学6年生の時、ケンヂが自由研究でまんが研究をしたいと先生に行ったところOKがでたので、他の男子3人、女子2人も便乗してきて、まんがの描き方を勉強してまんがを書いて提出した。

当時ケンヂはまんがが好きでまんが家志望だった。友達の家に泊まり「まんが合宿」を行ったり楽しいものだった。

担任の先生は応援してくださり、それを製本して文化祭で生徒が読めるように展示してくれたりした。

こんな風変わりな学校だった。もちろんケンヂはこのときまんがの才能がない事に気がついたわけだが・・・

 

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教育実習も年2回行われ、各クラス10人近いの大学教育学部の大学生が2週間にわたりやってきた。

大学が小学校の近くにあったので、実習生は皆学校の近所に住んでいるので、よく実習生の家に数人でいったりして遊んでもらった。

みんな四畳半一間のアパートに住んでいて、質素な生活をしていたが、安い鶏肉を買ってきてホットプレートで焼いて食べたり、当時はやっていたサザンオールスターズやツイストのレコードを聞かせてもらったり、手塚治虫の「火の鳥」の漫画をいただいたり、近所の公園で「ケイドロ」をして遊んだり・・・当時の小学生から見れば、とてつもなく自由で大人で楽しそうな生活に見えた。

 

こんな変わった学校だったが、楽しかった。

 

 

 

ケンヂの家は小学校から徒歩で1キロほどのところにあった。前にも書いたがケンヂの家の近く住んでいた男子のクラスメートは二人しかいなかったので、その二人『グンボ』と『オッカン』は当然遊び、仲良くなった。

 

 

最初に仲良くなったのはグンボだった。学校の帰り道が一緒だったので、一緒に帰りはじめた。

体が大きかったが、おとなしく気が弱く無口で運動が苦手だった。

母親が教育熱心でクラス一の秀才だったが、テストで100点がとれなときは泣いていて可哀そうだった。

自転車も母親が「危ないから、友だちの自転車にも乗らせないでくれ」と言って来た。グンボには2つ年上の姉がいたが、姉は活発で自転車に乗って遊びに行ったりしていた。

ケンヂもグンボも空想好きで本を読むのが大好きだった。

よく物話を作ってお互い話したりなぞなどを出し合ったりして遊んだ。

グンボの家は小さな商店街の金物屋だった。グンボの家に遊びに行くと、入ってはいけないと言われていたけど、グンボのおじいちゃんの三畳の部屋でよく遊んだ。

おじいちゃんの部屋の前には、おじいちゃん専用の三畳程の小さな池のある庭があった。暗い部屋だったが、不思議と落ち着く空間だった。

雨の日なんか池の鯉やカエルを眺めながら、楽しい事を話したり将棋をしたりした。将棋は兄に鍛えたれていたので、グンボが秀才でも滅多に負けなかった。

グンボとおじいちゃんの部屋には本がたくさんあり、大きな虫眼鏡や古銭のアルバムがあった。グンボのおじいちゃんの部屋で遊ぶのが大好きだった。

お母さんがやってくると、グンボは緊張して話をしなくなる。お母さんには会うたびテストの点とか、成績とか、兄の勉強方法とか家のことを聞かれた。 

遊ぶ約束をしていても勉強があるからと遊ばせてもらえないこともよくあった。ケンヂもグンボのお母さんは苦手だった。

グンボは操り糸の見える人形だった。グンボとは小学1年から4年まで同じクラスだったので本当に仲が良かった。と思っていた。

 

 

オッカンは最初、学校の帰りに通る道順がケンヂ達とは違っていたので、家が近い事を知らなかった。

入学後数ヶ月が経ち、家が近いことがわかり、一緒に帰りだして仲良くなった。

背が前から2番目と小さかったが、明るく活発でグイグイ人を引っ張っていくような性格だった。小学1年から6年まで同じクラスで、一番の仲良しになった。

 オッカンの家は一軒屋でよく遊びに行った。

可愛らしい妹がいたが遊びに行くとオッカンが追い出して二人でゲームをしたり本を読んだりして遊んだ。オッカンの妹が買っていた少女マンガの雑誌なんかも読んだりした。

オッカンのお母さんはセンスの良いお嬢様育ちな感じの人で、モダンで若かった。遊びに行くと、たまに手作りのおやつを出してくれた。甘いメレンゲムースのレモンソースケーキは絶品で、それまでおやつというものをほとんど口にした事がないケンヂを魅了した。

オッカンは当時珍しくサッカーボールを持っていて、よく公園でサッカーをして遊んだ。

ケンヂの家の近くの公園で二人でサッカーをしてたところ、後から公園に遊びに来た別の学校の小中学生15~6人に絡まれたことがあった。

ケンヂは大きな中学生数人に羽交い絞めにされ、殴られたりボールをぶつけられたり、投げ飛ばされたりして、馬乗りになられた。

ケンヂはめいいっぱい抵抗したが、大きな中学生には力ではかなわなかった。

そのときオッカンが走り去るのが横目に見えた・・・え??

「お前の友だち見捨ててにげたで~」

馬乗りになり笑っている中学生に腹が立ち、手に思いっきり噛み付いた・・・

「いたたた・・・はなせ!!」

ケンヂは更に強く噛み続けた・・・

鉄のような味がしてきた・・・

周りにいた小中学生から蹴られたりしたが離さなかった。

噛み付かれた中学生は泣きだしていた・・・

その時、オッカンがケンヂの母を連れて走って戻ってきた。

「こら!」フライパンを振りかざし走ってくる母を横目に見ながら、サザエさんみたいだなぁ・・・となんとなく思った。

小中学生は一目散で逃げた。手からすこし血が出ていた中学生も噛み付いていたケンヂを振りほどき逃げていった・・・

オッカンはケンヂを見捨ててはいなかった。

 

この話は、翌日学校でクラスメートに知れ渡り(オッカンにより)、皆から英雄視されるとともに、「狂犬病」とか「ケン犬」とかいう渾名に変わった。あまりいい気はしなかったが「スッポンよりましだろ~」と言われ、渾名を快く受け入れることにした。

 

ケンヂは小学生時代、三度『馬乗り』になられた経験がある。

温和でお調子者だったし、決して喧嘩が好きなわけではないのだが・・・

二度目の『馬乗り』は小学6年生の時だった。

当時図書委員と校舎整備委員をやっていたのだが、選挙で委員長副委員長を選ぶ時、立候補していないのに推薦でケンヂの名前が出た。

校舎整備委員は他に推薦される人も無くすんなり副委員長になった。

図書委員の選挙の時、副委員長に幼稚園時代から9年間同じクラスだった友だち、Nくんが立候補した。Nくんはクラスで一番小さく「チビ」と言う渾名だった。(悪気があっての渾名ではない)

当然立候補優先だろうと思っていたら、なぜか多数決でケンヂに決まった・・・Nくんは下を向いて悔しそうだった。

ケンヂはクラスの班長、総合学習の班長など、立候補しないのになぜかよく選ばれた。

 

図書委員選挙の数日後、廊下でNくんが他の子と歩いていたので、オッカンと

「おう!ちび~」と言って背中をトンと叩き追い抜かした・・・・次の瞬間、後頭部にNくんが殴りかかってきた。

いきなりだったので防御も出来ず、何度も殴られたまま馬乗りになられ、髪の毛をつかまれ床に何度もゴンゴン打ち付けられた。

ケンヂはわけのわからぬまま殴られる状況を打破しようと、N君の髪を引っ張りながら、爪を立てて鷲づかみにした。ケンヂは握力が強く爪を立てていたところに血がにじんでいた。Nくんが泣いていても離さなかった・・・その時先生が来て引き離された。右手の指には血とNくんの皮膚、左手の指には抜けた髪の毛がいっぱいついていた・・・

Nくんは泣いていたが、ケンヂは喧嘩では泣かなかった・・・

先生はオッカンや周りにいた子から状況を聞き、二人を保健室に連れて行ってくれた。

 

その日は疲れて学校から帰るとすぐに寝ていた・・・甲高い怒鳴り声で目が覚めた。

Nくんのお母さんがNくんをつれて怒鳴り込んで来たのだった。

オッカンが「Nが先に手を出してきた」ということと、「頭をガンガン床に打ちつけられてたので、ケンヂが死ぬんじゃないかと思った」と言うことを、母に電話で話していてくれてたので、ケンヂは叱られることはなかった。

「家の子も顔があざだらけではれてるし、子供の喧嘩ですから・・・」と言って追い返しているのが玄関の方から聞こえてきた。

追い返しているのを聞きながら、ケンヂは、何でNくんがあんなに怒ったのか? を考えてみたが、「チビ」と言ったせいなのか?「図書委員副委員長」のせいなのか、やはりわからないでいた・・・が、一応反省して今後「Nくん」と呼ぶことにしようとノンキに考えていた・・・

  

 

夏休みにはオッカンと、近所の山のふもとにある神社『大判神社』と、その裏山に登ってよく遊んだ。

神社境内の上から登り、山に入り道無き道を歩き回り、竹の子を掘ったり、木苺をみつけて食べたり、蝉やカブトムシやクワガタを捕ったり、木に登ったり、木々をツルで縛って屋根を作り、落ち葉を乗せて秘密基地を作ったりした。たまにグンボも呼んであそんだ。

オッカンとは当時カブスカウトに一緒に通っていたので、アウトドアの知識はある程度持っていて、山は恰好の遊び場だった。

 

夏休みのある日、オッカンが

「グンボも誘って、夜明け前、朝5時に大判神社に集合してからカブトムシを捕りにいこう !」と言ってきた。

薄暗い山でカブトムシを沢山捕る姿を想像して、どうしても行きたくなった。

一番遠いグンボが4時45分に家に来て、5時に大判神社に行くことになった。

親にその話をしても許してくれるはずも無いので、気づかれないようにこっそり抜けだす事にした。

その日は懐中電灯やビニール袋、腕時計を持っていなかったので目覚まし時計などをカバンに詰め準備して早めに寝た。

朝3時には目が覚めた。様子を伺いながら抜け出す時間を待った・・・

4時半に気づかれぬようこっそり抜け出し、アパートの階段の下に隠れて、グンボを待った・・・

外は真っ暗でシンと静まり返って・・・人に見つかるかもしれないという緊張感でドキドキした。

電柱についてる街灯の周りを沢山の蛾が飛び回っているのが見えた。

時間が過ぎてもグンボは現れなかった・・・

仕方が無いので、一人大判神社への道を人目につかぬよう急いだ・・・

暗い夜明け前に家を抜け出すのは初めてで、小学生のケンヂにとっては大冒険だった。

今と違い、当時はコンビニなんて無かったし、月明かりと街灯の明かりしかなかった。人目につくといけないので、街灯のある道は避けて月明かりで道を急いだ・・・

トムソーヤさながら、ドキドキしながらワクワクしながら大判神社に到着した。

  

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神社の下の広場は真っ暗で、当然だが人気が無かった。目を凝らしてオッカンを探し広場の隅や木の陰を覗いたが、人の気配は感じられなかった。

懐中電灯で照らし、隅々まで探した。

「オッカン起きれなかったのかなぁ・・・」

急に一人で暗闇の中にいる事が怖くなってきた。夏の生ぬるい空気に鳥肌が立った。

信用していたグンボもオッカンも来なかったという絶望は、ケンヂの頭から肩に重くのしかかり、ぐいと後ろに引き倒した・・・思わずその場にしりもちをついた・・・

湿気た土の妙な感触が嫌だった・・・

カサカサ虫が動いてるような音がした・・・

ケンヂは今にも泣き出しそうだった。

家から神社まで10分程の距離だが、ここにたどり着くまでの10分はいつものそれとは違い、長い長い道のり・・・

これから一人で帰るということはとてつもなく絶望の闇のなかで、家は遥か彼方に思えた・・・

ケンヂが途方にくれていると、鳥居から続く階段の先の闇に一瞬何かオレンジ色に光るものが見えた。

ケンヂは立ち上がり、お尻をはたいて階段を駆け上がった。

階段を登りきった先の境内の右脇から山に続く場所に、オッカンがいた。オッカンは懐中電灯と虫篭を持ちリュックを背負っていて、ケンヂを見て「早くついたから先に登ってた」と言い、ニコリと笑った。

グンボが来なかったことを知り、「あれだけ約束したのに、ゆるせん!」と怒っていたが、すぐにいつものオッカンに戻り「ヤニ蜜のでるめぼしい木はわかってるから、そこから探そう」と山に入っていった。

ケンヂはさっきまで泣きそうだったことを悟られまいと下を向いて後を追った・・・

夜明け前の山はケンヂの想像以上真っ暗だった。懐中電灯の照らす弱弱しいオレンジ色の光は、すぐ前にある木々で遮られてしまい、その木の影と漆黒の暗闇が混ざり、いつも通っていた何気ない当たり前の山道を覆い隠し、どこを進んでいるのかわからなくした。

それでも数箇所のヤニ蜜ポイントにたどり着けたが、蝶やカナブン、ハチしかいなかった。

そのまま暗闇の山中を以前作った秘密基地目指して進んだ。

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オッカンの後を追いながら、もはやどこを進んでいるのかわからないまま随分歩き続けた。寄って来る蚊や蛾と格闘しながら見失しなうまいと足場の悪い山中を急いだ。

その時突然大きな羽音をたてて、大きなカマキリムシのようなものがオッカンとケンヂがいる方をめがけて飛んできた。それは通常見るカマキリより遥かに大きくこちらに向かって飛んでくるので、驚き、二人は慌てふためき逃げ回った。闇雲に見えない闇を走り、木にぶつかり崖のようなところを二人は滑り落ちた・・・

辺りは夜が明け始め、漆黒の闇は薄暗い朝を迎えた・・・

ケンヂ達が滑り止ったのは45センチほどにそろえて笹を打ち込み作った柵だった。柵の下は急な崖になっていて数メートル下に民家の屋根が見えた。柵を乗り越えて落ちたら、ケンヂ達は助からなかっただろう・・・

ケンヂ達は滑り落ちた崖を慎重に登り神社に戻り石段を降りた。

その間二人はほとんどしゃべらなかった・・・しゃべれなかったのだ。

オッカンを家まで送り、簡単な挨拶をかわし、一匹のカブトムシも取れぬまま、呆然としたまま家に向かった。

もうすっかり夜は明けていた・・・

どろどろに汚れて気の抜けたまま家に着くと、玄関前に母が険しい顔をして立っていた。グンボが家を抜け出す時に見つかり、早朝に電話があったらしい。

散々怒られたはずなのだが、まだ呆然さめやら無いままだったので、怒られた時の記憶が無い。

 

グンボとは5年生のクラス分けで別々になった。

6年生のある日、休憩時間にプリントを隣のクラスに持っていくよう頼まれてそれを持って行った。プリントを渡した後、グンボが座って本を読んでいるのが見えたので

「グンボー久しぶり~」と近づき、いつもしていたように、グンボの首に手を絡めた・・・

するとこのクラスで柔道を習っているUくんがいきなりケンヂの腕をつかみ背負い投げをした。

いきなり投げ飛ばされ馬乗りになられた。

これが三度目の馬乗り事件だ。

「よそのクラス来てなにいじめよんや~」

馬乗りで身動きが取れなかったし力も湧いてこなかった。

ケンヂはグンボの方を向き「いじめとんじゃないよな~?」といったが、グンボはそっぽを向いたままだった・・・

休憩の終わりを告げるチャイムがなり、Uくんはケンヂから離れた。

ケンヂはグンボの行動のわけがわからないまま・・・クラスに戻った・・・

 

 

 

小学生のころのケンヂは足が速くスポーツは大体何でもこなした。

活躍できるので、運動会が大好きだった。小学1年生の時から5年生までクラス代表のリレー選手をしていた。5年生の時膝を怪我してしまい、それ以降は早く走るのが怖くなり手を抜いて走っていた。

6年生の運動会は、応援団副団長に選ばれ特に気合が入っていた。

5・6年生男子の行う騎馬戦が、運動会最大の見せ場であり、最後の種目だった。この小学校の騎馬戦は最初に5分間落としあい、騎馬の崩しあいがあり、そこで残った騎馬が一騎打ちを行いハチマキを奪い合う・・・

ケンヂは体重が軽かったし、運動能力が高かったので大将から数えて4番目の騎馬の上に乗っていた。大将騎馬の方から大きい順に並び、一騎打ちは低い騎馬から順に勝ち抜き戦を戦う。

予行練習ではケンヂはいつも3騎馬勝ち抜きで、4騎馬目のUくんが上に乗る騎馬に負けていた。どうしてもUくんには負けたくなかった。

 

いよいよ本番が始まった。頭が割れるくらいはちまきを縛り上げた。

落としあいは無理に仕掛けず、いつも通り乗り切りった。

一騎打ちの3番手だった。

味方の1番手2番手が練習と違いあっさりハチマキとられてすぐに順番が回ってきた。

ケンヂは4騎馬連続で勝ち抜いた。

5騎馬目は練習で勝てなかったUの騎馬だった・・・

かなり激しい攻防の末、初めてケンヂはUくんのハチマキを取った。

その後も奇跡的に勝ちは続き・・・7騎馬勝ち抜き・・・大将騎馬まで来た。

われんばかりの声援が聞こえてきた・・・

大将騎馬とは大人と子供位のガタイの違いがあった。

一騎打ちが始まり、力でねじ伏せられ・・・完敗・・・

でもその年のケンヂは、運動会一のヒーローになった。

運動会の後 Uくんが来て

「強かったね~負けたよ」

と爽やかに言って来て握手を求めてきた。照れくさかったけどしっかり握り返した。

もともとUくんは爽やかな奴なんだ。

 

 

笑える話だが、運動会後、下級生女子にケンヂファンクラブが出来て取り囲まれたり追いかけられたりした。一生分のモテ期が来たのではないかと思うほどだった。

バレンタインでチョコレートなんて今までもらった事が無かったのに、その年は紙袋いっぱいになるほどもらった。

 

 ケンヂの初恋は5年生の時だった。初めてのクラス替えで同じクラスになったYさんだ。Yさんは明るく頭が良くキュートでやさしい子だった。

 相談に乗ったりするのは女の子でも全然平気だったけど、Yさんにはほとんど話し掛ける事ができなかった。

オッカンや友だちはケンヂがYさんのことを好きだと知っていたので、よくお節介にもケンヂがYさんの近くにいる時、話題を振ったりしたが、ケンヂはシドロモドロになった。当時持っていたお守りの中にYさんの写真を切り抜いていてるくらいしかケンヂには出来なかった。

 

ケンヂは昔から人を心底憎んだり出来なかったし、怒りも持続しない性格で、悪口もほとんど言ったことが無い。正義感は強かった。

当時太めの女の子や器量の悪い女の子は、皆にからかわれたりいじめられていたのでよく相談に乗った。

その後の班替えの時、班長に立候補して班員を選ぶ際、同じ班 にその子達を呼んだりした。

 

6年のオリエンテーリングの時、ゴールまで4、500メートルのところで

同じ班だった器量のあまりよくないNさんが熱を出し、途中で動けなくなったことがあった。

Nさんはよく男子から、「さわるとN菌がうつる~」といっていじめられていた子だった。

同じ班の男子は疲れきっていたし、頼りになりそうに無かった。

Nさんは朦朧としていた。雨が降り出した。

「ゴールから先生を連れて来て!」と同じ班の子に指示して、ケンヂはNさんをおんぶして山道をゴールに向かった・・・

途中ケンヂの背中の上で吐いたりした。

他の班の子と合流した。吐いた汚物の臭いに鼻をつまみ、からかわれた。

ケンヂは睨みつけた。

女子は励ましてくれて、Nさんの口元や汚れた背中をタオルで拭いてくれたりした。

山道はかなりきつかった。背中のNさんはかなり熱い・・

雨で滑る道を慎重に進んだ。

ゴールが見えてきたところでやっと先生が駆け下りて来た。

 

翌日みんなの前で先生に褒められたが「動かさずに先生を呼ぶのが正解」とも言われた。

ケンヂにもそんな事はわかっていたが、万が一、先生を呼びに行った班員が道に迷ったりしたらいけないと判断したからだった。

 その日一日Nさんは学校を休み、翌日回復してお母さんと一緒に登校してきた。お母さんから菓子折りを頂き、何度も何度もお礼を言われた。

その日からNさんはいじめられなくなった。

 

 

 

ケンヂが小学3年生になるまで専業主婦でいつも家にいた母も

父の始めた会社で事務経理をするようになった。小学4年生の時からケンヂはカギッ子になっていた。

兄は中学生になっていて部活で遅くなる事が多く、ケンヂは家に一人でいることが多かった。

そんな時ケンヂは百科事典についていた『100万人の音楽』という10枚組みのクラシックのレコードを聴きながら、本やまんがを読んだり、白紙の自由帳に落書きやまんがを書いたり、空想の話を書いたりする事が多かった。

6年生の時、皆受験勉強をするため授業が終わると、足早に家に帰るようになった。ケンヂは家に帰っても一人ぼっちなので、下校ギリギリまで学校の裏庭の大きなプラタナスやポプラの木がある人目につかない場所で、落ち葉の上に寝転がり本を読むことが多くなった。

土曜日なんかも誰もいない裏庭で日が暮れるまで一人本を読んだ。そのまま寝てしまい夜7時ごろ目が覚め、あわてて帰ったこともある。

 ケンヂは他の生徒のようには勉強をしなかったし、国語の成績も小学1年から6年まで通して『ウ』(下から2番目)だったが、本を読む事は大好きだった。

学校の図書室の貸し出し可能な本の『貸出票』の半分にはケンヂの名前が書いてあった。

夏休みには14冊まで本を借りる事ができたが、読み終わるとまた学校に何度も借りに行った。夏休みでも週何日か図書の先生がいて貸し出し可能だった。夏休みは学校のプールで水泳教室があったので、プールのあとよく借りに行った。

 

図書の先生は優しい若い女の先生で、ケンヂに色々な本を紹介してくれた。先生の紹介してくれる本は外国の名作のジュニア版が多かった。

ケンヂの学校の先生のほとんどは男の先生で、女の先生は数人しかいなかった。

この図書の女の先生と保健の女の先生のお気に入りの生徒だった。

大きくなり『ケンコウユウリョウジ(ヂ)』に育ったが、幼稚園まで小児喘息だったり、骨が細く医者で処方された漢方薬やカルシウム剤を沢山飲まさせられたり、5年生の時に扁桃腺とアデノイドを取る手術をするまでは、しょっちゅう風邪を引き高い熱を出していた。

保健室にはよくお世話になった。

当時、共働きの家は少なく、学校で体調が悪くなったりしたら家に帰っても誰もいないので、下校時間が過ぎても、母が迎えに来るまで保健室で休ませてもらったりした。

たまに放課後保健室の前を歩いていたら、保健の先生に呼び止められ、「内緒よ」と、奥の先生の部屋でこっそり紅茶とお菓子を頂いたりした。

 

文化祭の時、各自どこかの班に入り全校生徒の前で班ごとに発表するというのがあった。ケンヂは保健の先生に勧められたこともあり保健班になった。

保健班では(男子4人女子3人の班で)出し物劇をすることになった。主役の男の子の役だったのだが、前日に女の子の役に保健の先生が台本を変えてしまった。ケンヂは当然激しく反対したが、「やってみんさい」と先生を含む班員に押し切られた・・・

小学時代のケンヂは線が細く、女の子のような顔立ちだった。取り巻きの下級生の女の子には「かわいい顔」と呼ばれていた。

当日、先生の用意したウィッグと班の女子の可愛らしいドレスのような服をわたされ、化粧までされて女の子の台詞を練習させられた・・・直前まで・・・

ケンヂはアガリ症で赤面症で・・・人前に出る事自体苦手なのだが・・・女の子の恰好で女の子の台詞で、歌までとは・・・

保健班のメンバーには「ぜったいワシだって事だれにも言うなよ!」と念をおした。

本番・・・緊張を通り越していたが、先生を呪い、班員を呪い、爆笑覚悟で舞台に立った。

照明が厚く眩しく・・・クラクラしてきた・・・

勇気を出し、女の子になりきり演じた・・・

 

割れんばかりのすごい拍手だった・・・

ケンヂは気を失いそうだった。

当時のケンヂはボーイソプラノのような声だったので本番・・・・誰にも男だと思っていなかったようだ。

 

出し物が終わると、急いで保健の先生と保健室に駆け込みウィッグをとり、服を着替えた。

はずかしさと緊張が一気に取れて、涙がぽろぽろ出てきた。

化粧を落としながら先生に涙を見られないようにした。

先生は頭をなでてくれて、「よくやったね」と言い優しく微笑んだ。

涙がぽろぽろまた零れ落ちた・・・

泣きながら先生の出してくれた紅茶とクッキーを食べた・・・

どうして先生がこんな事をさせたのか理解できなかった。

 でもケンヂは心の中で先生を許した・・・

 

後であの女子は誰だったんだ?と、うわさになっていた。

ケンヂは知らないフリを通したが、保健班の女の子達が意味深げに「さあ誰かね~」とケンヂの方を見て目配せするものだから、すぐにばれてしまった・・・

ケンヂと知れた後は、男子にはからかわれ、女子からは大賞賛を受けた。取り巻きの下級生女子にもしばらく、格好の追っかけの材料にされた。

 

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5・6年の時の担任はK先生と言う国語の先生だった。

K先生はケンヂの父と同い年で、厳格だが優しい先生だった。

先生は8歳の時、広島原爆で被爆され、お姉さんをなくされた。爆風で家がつぶれて、先生は家の柱と柱の間で助かり、同じ部屋にいたお姉さんは亡くなられた。

広島の学校では平和教育が盛んに行われる。先生の話や平和教育で見る映像や被爆者の体験談、「はだしのゲン」など図書室で読んだ原爆漫画や本は、またいつか話すが、ケンヂに心的外傷を与えた・・

 

発想法で知られる、川喜多次郎という文化人類学者が考え出した、データをカード化して、頭脳地図のようなダイヤグラムを用いまとめるために考案した手法、『KJ法』を当時から授業で実践したりしていた。

他校からこの授業を見るために何度も大勢の先生が授業参観に訪れた。

また、音読暗誦を盛んに行い、小学生ながら、夏目漱石の『草枕』の冒頭文や宮沢賢治の『永訣の朝』などを覚えさせたり、『百人一首』を全部覚えさせたりした。

朝礼では、男女各一人3分間スピーチがあったり、壁新聞を毎週書かせたり、毎朝日記を提出させ、帰る前までに必ず全員の日記にコメントを残し返却したり、自分で考えさせ、書かせることに力を入れている熱心な先生だった。

 

先生の好きな作家、井上靖の『天平の甍』が映画上映された時などは、「きっと今後の人生でみんなの力になる」と、クラス全員を自費で映画館に連れて行ったりした。長い長い話で、小学生には半分くらいしか理解できなかったが、強烈な映像が頭に残り、大人になったあとだが、思い返し、ケンヂはこの話の原作を読んだり、映画も見返したりした。

 

『自由研究』の授業で『まんが研究』を許可、応援してくれたのもK先生だった。

受験生なのに家でまんがを描いていると、いつも親に怒られた。

先生は「勉強だけが小学生に必要で大切な事ではない。色々な才能の伸ばし方は無限にあり、勉強はやる気になれば、今後、いつでもどこででもやる事ができる」と親を説得してくれたりした。ケンヂには才能が無かったわけだが、当時、才能を信じてくれた感謝すべき恩師だ。

 

 

ついでに『まんが研究班』のTくんの話をしよう。

この班に最後に入ってきた Tくんと言う子がいた。

Tくんは勉強が苦手で、成績も下から数えた方が早かった。

Tくんとはそれまで殆ど話した事が無く、まんがを描いたりするとは思わなかった、班に入ったのを機に仲良くなった。

Tくんはアイデアや画力に秀で、完成させたまんがは小学生のものとは思えない出来だった。ケンヂ達他のメンバーの遥か上を行っていた。

Tくんのまんがをみてケンヂは自分の才能の無さを思い知らされ、挫折し羨んだ。

 

まんがの発表の場である文化祭の終わったすぐ後、Tくんのお父さんが交通事故で亡くなられ、4人兄弟の長男のTくんの生活はがらりと変わった。

お葬式の日、Tくんはまだ小さい弟達の泣き叫ぶ中真っ赤な目で涙をこらえ、強い意志を前面に出していた・・・

ケンヂはそれまで身内や知り合いの『死』を経験した事が無く

絶望の中、歯を食いしばるTの本当の辛さが解ってはいなかった。

Tくんはそれ以降早朝からアルバイトをして、小学生なのに立派に『お父さん』していた。

学校では疲れて寝ている事が多かったし、休みがちになったが、愚痴一つ言わず立派だった。

 

皆より早くターニングポイントが来たのだ。

 

ケンヂ達は気の利いた言葉もろくにかけれ無かったが、心の中で一生懸命応援していた・・・

何も出来ない自分がもどかしかった。

 

 

 11月の文化祭が終わると、次第に寒さは増し

小学生最高学年には受験の季節がやってくる。

国立付属中学の偏差値は70だった。

合格ラインの40位以内にケンヂは入った事がなかった。

ケンヂの最高順位は42位。

受験が近づくにつれがんばった人たちの成績は上がり始め

それにつれケンヂの順位は下がり

試験直前は46位まで落ちていた・・・

 

 

当然だが、なるべくして、なった・・・

桜は散った・・・というより最初から咲いていない・・・

 

学年1位のグンボやいつも20位前後にいたオッカンは当然合格していた。

 

試験後には最後のイベント卒業式が備えていたが

ケンヂのターニングポイントスイッチは試験当日に入っていた・・・

「ああ、終わった・・・」

真っ白い世界だった・・・

それから卒業式まではほとんど記憶に無いくらいめまぐるしく、白々とした季節につつまれたまま、違う世界での出来事のように過ぎ去った・・・

ケンヂは真っ白な世界に取り残された・・・

 

 

卒業式の数日前、ケンヂは市内に出るバスに乗った・・・

バスの一番前の席にグンボが乗っていて、乗る最中に目があった。

ケンヂはグンボの顔を見て「よお」と声をかけた。

グンボは窓下を向いたままこちらを向かなかった・・・・

 

ケンヂは悲しくて、泣きそうだったけど

我慢して一番後ろの席に座った・・・・

 

 

 

永遠は刹那に変わった・・・

 

友人との別れ、初恋の人との別れ・・・

 

 

 

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